水がむすぶ
新潟の上知と開港
⑫ 初代新潟奉行川村修就(かわむらながたか)
天保年間、新潟湊で行われた「唐物抜荷」(からものぬけに:中国製品の密貿易)が摘発されました。当時「唐物」は長崎会所を通すことが原則でしたが、薩摩藩は財源確保のため琉球経由で入手した薬種、朱墨、生糸、べっ甲、毛織物をはじめとした中国製品を売りさばきました。この密貿易には新潟町の商人も関与しており、天保7(1836)年と11年の2度にわたって幕府に摘発されました。この結果、2回目の事件を理由に新潟町は上知され幕領となりました。
幕領となった新潟町には遠国奉行の新潟奉行が新設され、初代奉行として代々御庭番の家系であった勘定吟味役・川村修就が就任しました。川村は台場設置や砲術訓練などによる新潟町及び周辺の海岸防備の強化、湊を通る物資の掌握、天保の改革を受けた町民の風俗改め、窮民救済・犯罪摘発、飛砂防のための海岸林造成の促進など、町政につとめました。およそ9年にわたる町政の後、川村は堺奉行へ転じ、その後は大坂西町奉行、長崎奉行などの遠国奉行を歴任しました。
幕領となった新潟町には遠国奉行の新潟奉行が新設され、初代奉行として代々御庭番の家系であった勘定吟味役・川村修就が就任しました。川村は台場設置や砲術訓練などによる新潟町及び周辺の海岸防備の強化、湊を通る物資の掌握、天保の改革を受けた町民の風俗改め、窮民救済・犯罪摘発、飛砂防のための海岸林造成の促進など、町政につとめました。およそ9年にわたる町政の後、川村は堺奉行へ転じ、その後は大坂西町奉行、長崎奉行などの遠国奉行を歴任しました。