八木朋直旧蔵・明治初期新潟町の写真コレクション

八木朋直は米沢藩出身で明治2(1869)年以降、越後府の官員、県の会計課長をつとめた後、明治9年に地元の第四国立銀行頭取となり、明治32(1899)年から明治35(1902)年まで新潟市長をつとめた人物です。ここで紹介する八木朋直旧蔵の古写真はいずれも明治初期のものとみられます。現在確認できる限り新潟町を撮影した最も古い写真群です。

新潟税関と青柳橋

税関の西側と艀下川にかかる青柳橋を写す。税関の敷地内、画面左側手前に見えるのは土蔵。 明治2(1869)年に設立された新潟運上所は6年に新潟税関と改称された。

新潟税関から湊町通を見る

税関の塔屋から西方を眺める。運上所(税関)と県庁の間には電信が明治3(1870)年に敷設され、湊町通にその電信柱が見える。写真注記には明治7年撮影とある。

新潟税関から入船町・港口を見る

税関の塔屋から信濃川河口を眺める。手前右の建物は税関の石庫(保税倉庫)、左が土蔵。信濃川には多くの洲が見える。奥へ続く家屋は、川岸に形成された入船町である。

初代新潟灯台

明治2(1869)年に沖ノ口番所跡地に設置された初代の新潟灯台(灯明台)と灯台守の 官舎を写す。信濃川河口部右手に帆を上げた回船や、停泊中の回船、その奥に信濃川の対岸が見える。

河口部の砂地

海浜植物が繁茂する砂地の先にあるのは漁師小屋と船小屋か。その向こうの信濃川河口部に、回船が帆を下ろして停泊している。うっすら対岸が見える。

他門川入口

現在の礎町通上一之町(他門川公園)側から他門川を見る。画面左手は信濃川から分流した部分にあたる。右手には二番堀上通よりつながる千曲橋が見えている。

西厩島の他門川

他門川にかかる相生橋は、西厩島町の通り(現、こんぴら通り)へ続く。通りに面した画面左手の建物は金刀比羅神社、その奥に見える四角い塔のある建物は明治3(1870)年に開業した芝居小屋の永楽座。画面右端に屋形船が停泊している。

本町通8・9番町

手前に見える庇の切れ目が坂内小路で、八番町から九番町方面を写す。新潟県令楠本正隆による改造後の町並みで、所々に石油ランプの街灯が建つ。

新潟郵便役所

明治5(1872)年7月、旧新潟町会所の一角を利用して新潟郵便役所が開設され、明治6年10月には擬洋風の建物が新築された。画面左側は柾屋小路(現、柾谷小路)で、手前は本町通である。

本町通7番町

柾谷小路側から下方面に本町通を写す。新潟県令楠本正隆による改造後の町並みで、庇の高さや道路の凹凸が整理され、庇にはめられていた戸障子も撤去されている。

新潟郵便役所正門

新潟郵便役所の正門を写す。正門は本町通側に開いていた。門の手前には人力車が停まっている。

古町通2番町

整備工事中の古町通。開港場にふさわしい町にするため、道の凸凹を整え、軒先(雁木)の障子戸をなくし、石油の街灯や蓋付の側溝、防火用の水桶などを設置している。

古町通3番町

整備後の古町通。町屋の庇の高さもそろい、整然とした町並みとなっている。道路に面した石置き屋根の妻入りの町屋は江戸時代と変わらない。

古町通5・6番町

二番堀をはさんで手前が五番町、先が六番町。橋の左には高札、右には掲示板がある。明治6年に高札が廃止された一方、県令楠本正隆は活字印刷による「新潟県治報知」を発刊し配布・掲示した。

初代新潟県庁正門

弘化2(1845)年築の旧新潟奉行所の建物が転用された。手前は柾谷小路から続く豊栄橋。中央に長屋門が写り、菊紋の幕がかかっている。奥には県庁の望楼が見える。明治13(1880)年の大火で焼失し、同年東中通一番町に新築された。

初代新潟県庁前の西堀

県庁を南側から写す。西堀にかかる橋は手前が光林寺橋、奥が豊栄橋。堀は江戸時代から木杭と板によって護岸が施されていたが、明治5(1872)年11月から新潟県令楠本正隆により再整備が進められた。写真は整備前の様子と考えられる。

朝日町(現、旭町)周辺の砂丘

画面右手砂丘上に櫓と家屋がある。砂丘下の家屋のある場所は、後に師範学校敷地となる。遠景に信濃川が見える。

新潟招魂社

招魂社南西側から北東方向を見る。右手の鳥居が入口で、坂へと続く。左手の杭に「明治四年未十一月日」とある。現在の新潟大学有壬記念館付近。

新潟招魂社登り口

正面の坂を登ると招魂社。南東側の坂で、北東側にあたる現在のしょうこん坂とは場所が異なる。

新潟病院門

写真注記に新潟営所の裏門とあるが、柵のつくりと奥に見えている建物の様子から新潟病院の門と判断した。

新潟病院医学教場1

新潟病院は、明治9(1876)年に県に移管され、10年に新潟医学所と改称。明治天皇北陸巡幸にあわせ、建物は洋風の2階建に改築された。12年に県立新潟医学校と改称した際、病院が学校の附属施設となった。

新潟病院医学教場2

新潟病院医学教場1~3は連続するパノラマ写真。

新潟病院医学教場3

新潟病院医学教場1~3は連続するパノラマ写真。

新潟営所

正面に新潟営所の門が見え、門には「第八大隊」とある。門手前の道は現在の営所通にあたる。新潟営所は、明治5(1872)年に設けられ、7年には軍編成の改定によって廃止された。

新潟学校

一番堀のつきあたり(現新潟市役所庁舎敷地)。写真注記には「新潟小学校」とあるが、奥に見える建物は、明治6(1873)年5月にこの地へ移った県立の新潟学校と考えられる。

一番堀と小林料理店

画面右奥に新潟学校が見えており、中央の建物は小林料理店。店の前の左へ続く柵は宮浦堀を示しており、その手前、画面左端に白山神社の社。料理店の地は明治9(1876)年に小学校、11年に物品陳列所となる。

二橋元長氏宅

二橋氏の邸宅と写真注記がある。二橋元長は県参事で新潟病院院長も務めた人物。一番堀の対岸から白山島南東端を写しており、画面左が信濃川合流部方面。明治16(1883)年にはここに県会議事堂が建てられる。

二橋元長氏宅地信濃川岸

二橋氏宅の信濃川岸か。 白山公園の川岸は堤が築かれたが、白山島南東端部にはなかった。

造園中の白山公園

造園中の撮影と推定される。白山公園は日本最初の公園の一つで、明治6(1873)年の 太政官布告に先んじて造園が行われていたという。 右手前の建物の一部は園内に設置された新聞縦覧所である。

白山神社鳥居・随身門

白山神社鳥居・随身門手前の鳥居は安政3(1856)年に奉納されたもので、現在も建つ。奥には随身門が見えるが、随身門はのちに撤去される。