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あなたの?で博物館が育ちます

■2005年度の質問

◆2005年4月9日の質問
 新潟の地名は、いつ歴史上にあらわれましたか?
永禄六年北国下り遣足帳

 永禄7(1564)年です。越後の戦国大名上杉謙信が活躍した時代です。
 この前年から東国を巡行していた京都醍醐寺の僧侶が、旅行中の諸経費を記した帳簿(※写真「永禄六年北国下り遣足帳」(1563〜1564))の中に、「ニイカタ」とか「新方」という表記で登場してきます。
 これは「新しいところ」という説もあり、この頃には人々が集まる町ができていたのでしょう。
 なお、現在の「新潟」という漢字表記は、永禄11(1569)年が初見です。これは、村上の本庄氏が起こした反乱を鎮圧するために、上杉謙信が越後国内の武将は「新潟」に集結するように命じたことからわかります。

◆三ヶ津の時代

 「新潟」が登場する以前から、大河信濃川・阿賀野川の河口付近には湊がありました。
 信濃川の河口に位置した蒲原津は、延長5(927)年に完成した『延喜式』という法令集の中ですでに、京都へ船で税となる貢納物を輸送する際に、越後の国の湊として定められています。蒲原津は日本海交易路の要として、越後平野で最も栄えた湊でした。
 一方、阿賀野川の河口付近には沼垂湊があり、建武2(1335)年の越後の武士たちが足利尊氏方(北朝)と新田義貞方(南朝)に分かれて戦った戦乱時に登場するのが文献上の初見です。しかし、沼垂という地名は、大化3(647)年に設けられた「渟足柵」にさかのぼることが出来るので、平安・鎌倉時代は、新発田市付近にあった荘園の湊として役割を果たしたと考えられます。
 戦国時代には、発達した新砂丘V上に「新潟津」という湊が登場します。「新潟津」はそれまで大きな町のなかった信濃川の左岸側に立地しているという特徴があります。
 新潟津の登場によって、越後平野を流れる信濃川と阿賀野川の河口には、3つの大きな湊町が存在することになりました。
 上杉謙信はこの三つの湊(三ヶ津)に代官を置き、流通・軍事拠点としてこの地を掌握しました。このことからも、新潟・蒲原・沼垂の地が如何に重要な場所であったかがわかると思います。

 ※情報ライブラリで回答した内容を整理し補足しました。

2005.4.9.回答者:本館学芸員(長谷川)

◆2005年5月3日の質問
 料理模型の料理は1人分ではないですね?
◆常設展示室にある料理模型
宴会料理模型2

 常設展示の江戸時代のコーナー「湊町新潟」には、江戸時代の宴会料理を復原した料理模型が展示されています。
 この模型は、『江戸名所図会』の挿絵を描いた画家、長谷川雪旦が、天保2(1831)年に、新潟を訪れたときに描いた『北国一覧写』という書物を参考にしてつくられました。

◆『北国一覧写』に描かれた料理
宴会料理模型1

 長谷川雪旦は新潟で味わった料理の数々が図入りで描かれています。新潟らしい食材が多数使われた宴会用の料理です。

想定では6〜8人前程度です。その他、復元した料理は宴会の料理であること、本膳料理との違い、新潟の料理の特徴やもてなし方について説明しました。

2004.5.5.回答者:本館学芸員(長谷川)

◆2005年5月4日の質問
 なぜ新川と西川はクロスするのか?

 西川の川底が高いこと、新川の上流にある三潟(田潟、大潟、鎧潟)から水を抜くときの標高の違いなどを図解して説明しました。

2005.5.4.回答者:本館学芸員(小林)

◆2005年8月4日の質問
 昔の新潟の人口は何人?(江戸時代はじめ)?

元禄十年の人口が13200人だったという記録があります。(参考資料『新潟市史 資料編第2巻』)

 回答者:2004.5.5.本館学芸員(岩野)

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