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Last Update : 2006.2.12.Sun

あなたの?で博物館が育ちます

■2004年度の質問

◆2004年4月10日の質問
 水車(みずぐるま)の先は、なんで平べったいんですか?
水車
◆水車の材質

水車は木の板を組み合わせて作られています。そのため、先端部分は平らになっているのではないかと思います。

◆水車の仕組み

 水車は、動力を使った揚水機が登場する前の時代に使われていた、低いところから高いところへ水を上げる道具です。
 使うときは、水車の左右に竹などの棒をたてて手でつかまり、羽根(はね)を足で踏んで回転させます。
 そうすると上にのっている人の体重で水車の羽根が次々に回転し、水をくみ上げていきます。
 新潟では、稲の苗を育てる苗代田に水を入れるときなどに使われていたそうです。

2004.4.25.回答者:本館学芸員(岩野)

◆2004年4月17日の質問
 なぜ女の人が働かなければならなかったのですか?

新潟では、「男の子と杉は育たない」ということわざがあるように、 男性よりも女性のほうが大人まで無事成長しやすかったことから、女性が よく働いたのかもしれません。
 また、新潟では、女性が家の外で働くことをごく当たり前のことだと考え る気風があったことも、新潟の女性がよく働いた理由の一つと考えられます。

2004.4.25.回答者:本館学芸員(若崎)

◆2004年4月17日の質問
 まじないのサイコロのやりかたは?
◆緒立遺跡出土のサイコロについて

緒立遺跡の奈良・平安時代には、サイコロを振ってコマを進めるスゴロクが、 日本にもあったようです。そのため緒立遺跡から出土したサイコロは、スゴロク のような遊具や賭け事の用具とも考えられます。

◆信仰とサイコロ

一方、投げたサイコロの目は、人の意思では決められないことから、神の判断をあらわ すものとして、占いや祈願にもサイコロが用いられたようです。緒立遺跡よりも新しい室町 時代には、そうした例が記録にあるようです。

◆まだよくわかっていない緒立のサイコロの用途

 緒立遺跡のサイコロが何に使われたかは、よく分かっておりません。遊具だったかもし れませんし、賭け事の道具だったかもしれません。
 緒立遺跡や近くの的場遺跡からは、まじないに使われた道具がたくさん出ており、 当時、まじないが盛んに行われていたことがわかります。そのため、緒立遺跡のサイ コロも、占いや祈願をする、まじないに使用されたとも考えられます。 ただし、どのように使ったかは分かりません。

 今後も情報を集めていきたいと思います。

2004.4.25.回答者:本館学芸員(小林)

◆2004年4月24日の質問
 古いお金の中心はなんで四角いの?
和同開珎
◆穴が四角い理由

お金を作るときに、周りの縁についた「バリ」と呼ばれる不要な部分を削り落とす作業が あります。その時に、その穴に四角い棒を差し込んで回らないように固定させるため、四角に なったようです。

◆和同開珎1枚の価値は?

お金がつくられ始めた710年頃は、1枚で米を1.8kgほど買うことができたそうです。 その後、お金の価値が下がり、約50年後には、同じ量の米を買うために、30枚ものお金 が必要になったということです。

2004.5.5.回答者:本館学芸員(小林)

◆2004年5月2日の質問
 女池菜は雪をかぶるとおいしくなるといいますが本当ですか?
女池菜

 生産している農家の方がそういうので間違いないと思います。

◆各地の地方品種

 品種改良が各地の篤農家(とくのうか。農業に熱心な人)によって行われていた時代には、 日本各地でいろいろな地方品種の野菜が生産されていました。
 そういった野菜は、品種改良が進むにつれて姿を消していきましたが、現代では見直 されてきています。全国的には京野菜、新潟県内だと長岡野菜が有名です。

◆冬の風物詩 女池菜

女池菜は、明治時代に新潟市女池地区でつくられるようになった野菜です。 現在でも冬の雪が積もる時期につくられています。

 回答者:2004.5.5.本館学芸員(岩野)

◆2004年5月30日の質問
 今の市役所は何代目?

五代目市役所になります。

2004.5.30.回答者:本館嘱託職員(南)

◆2004年6月16日の質問
 深田での田植えの仕方を教えてください。

参考文献として金塚友之丞(1971)『蒲原の民俗』を紹介し、口頭で説明しました。

2004.6.16.回答者:本館嘱託職員(南)

◆2004年7月24日の質問
 鳥屋野潟の面積は?

 鳥屋野潟の面積は、1.67平方キロメートルです。
 鳥屋野潟は、砂丘列間の低地に位置し、氾濫原の後背湿地であったため、水面が現在までのこっている湖沼です。
 『新潟市史 資料編12 自然』に、鳥屋野潟の自然環境が詳細に解説されています。

2004.7.24.回答者:本館嘱託職員(南)

◆2004年8月7日の質問
 かまぼこはいつから食べられるようになったか?

平安末期の書物に「蒲鉾」の字が見えます。
当時のものは焼竹輪であり、蒲の穂ににていることから「蒲穂子」→「蒲鉾」になった。現在のような蒸し蒲鉾は江戸時代後期頃に作られるようになったという説を紹介しました。

2004.8.7.回答者:本館学芸員(森)

◆2004年8月27日の質問
 ベザイ船の「ベザイ」って?

瀬戸内の方言で「舳在(へさきがある)」が語源という説を紹介しました。

2004.8.27.回答者:本館学芸員(岩野)

◆2004年12月26日の質問
 竹塗りの資料はないか?

『新潟市合併町村の歴史 基礎史料集5 新潟新聞(大正編)』に新潟市の塗物の変遷の記事が採録されています。

2004.12.26.回答者:本館学芸員(岩野)

◆2005年1月10日の質問
 新潟市で見つかった土器は全部でいくつあるか?

数えきれないが、時代別の新潟市の遺跡数や出土遺物を紹介しました。さらに3月の合併後のことも説明して、数十万個以上になると回答しました。

2005.1.10.回答者:本館学芸員(小林)

◆2005年2月12日の質問
 古代城柵には、附属寺院がある場合とない場合があるが渟足柵の場合は、どのように考えられるか?

 渟足柵は7世紀中葉から8世紀前半までは存続していたと考えられています。
 このことは八幡林遺跡の「沼垂城」の記載が養老年間であることから裏付けられます。
 同時期の城柵・官衙遺跡として郡山遺跡があげられます。郡山遺跡は7世紀中ごろから8世紀前半の遺構です。
 この郡山遺跡のU期官衙(7世紀後半〜8世紀前半)には、郡山廃寺が附属しています。
 この他に、寺院が附属する城柵には次のものがあります。

 また、各国に伽藍建設が波及する時期は、畿内及びその隣国を除けば、7世紀後半から8世紀前半が最盛期となります。
 寺院が附属しない官衙・城柵遺跡として次のものがあげられます。

 以上のことから、城柵施設における寺院の附属は、7世紀後半〜8世紀前半に造られたものが多いことが分かります。渟足柵の場合について考えてみますと、造作時期は郡山遺跡T期にあたりますので、創建当初は寺院が附属していない可能性が大きいと考えます。
 ただし先述のように、渟足柵は郡山遺跡と同様に8世紀前半まで存続していました。
 『日本書紀』にはっきりと記載される渟足柵は、蝦夷支配のための国の重要施設であったことは間違いありません。
 また、渟足柵は、越後城、沼垂城と名称が変わっていますので、施設の性格が変化している可能性や、建てかえられたことも考えられます。
 したがって、後に寺院が附属した可能性も否定できないと考えます。
 まだ遺構が発見されていないことも考え合わせ、渟足柵に寺院が附属していたか否かについて現時点でははっきりとは断言できませんが、私は寺院が附属した可能性が大きいのではないかと考えます。
 遺構の一日も早い発見が待たれます。

2005.2.19.質問者にメール回答/回答者:本館学芸員(土田)

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