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企画展などで作成したスタンプです。
たまに情報ライブラリに登場することがあります。
Last Update : 2007.5.4.Fri
市島次郎吉は、市島邸の市島家の分家にあたる水原の市島家の三代目にあたる人物です。
当館で展示している大船絵馬は、新潟白山神社(新潟市中央区一番堀通町)の拝殿に掛けられている作品を複製して製作したものです。
(※ 当館では県内の他の白山神社と区別するため、「新潟白山神社」と表記しています。)
複製を作るにあたって、作品が描かれた当時の色彩を考証し復元する手法をとったため、オリジナルと大船絵馬とくらべて、色が鮮やかです。
この絵馬には、御城米(幕領の年貢米)を新潟湊から積み出す光景が描かれています。この御城米の回漕事業を請け負っていたのが、市島次郎吉です。
市島次郎吉は市島邸(新発田市天王)の持ち主だった市島家の分家にあたる水原の市島家の三代目の人物です。
大船絵馬が描かれた1852(嘉永5)年頃、水原の市島家は家運の絶頂期を迎えていました。
この絵馬を奉納する際、次郎吉は、絵馬を車に載せ、芸妓数十人に市中を引き歩かせたといいます。
大船絵馬のオリジナルは白山神社拝殿で、複製品は当館常設展示室で見ることが出来ます。
機会があったら見比べてみてください。
※情報ライブラリで説明した内容に補足を加えました。
2007.4.29.回答者:本館学芸員(岩野)
初代萬代橋が架けられたのは1886(明治19)年です。
模型は、萬代橋が八木朋直の経営から県営に移管された1900(明治33)年ころの様子を想定しています。
1897(明治30)年11月に沼垂駅が開業すると、萬代橋の通行量が急増しました。
当時は萬代橋は私設の有料橋だったのですが、交通量の増加などを受けて、1900(明治33)年、新潟県は萬代橋を買収し、無料化しました。
模型の橋の上には、通行人のほか乗客を乗せた人力車なども走っていて、人々が盛んに行き来している様子が再現されています。
初代萬代橋は1908(明治41)年に焼失して、架け替えられました。
※ 新潟市歴史博物館総合ガイドブックの記事を見ながら口頭で説明した内容に補足を加えました。
2005.12.8.回答者:本館学芸員(藍野)
古墳時代までは高床式建物の柱は地面から天井まで通っていたようです。7世紀以降に中国の隋唐の影響が入ってくると、日本でも役所施設の高床式建物は通しの柱ではなく床の上下で分断されたようです。そこで当館の的場遺跡の高床式建物は8世紀以降の建物であり、役所関連施設であることから、床の上下で分断される建物として復原しました。
柱の工法については次の通りです。
このように工法を考えましたので、下の柱と上の柱の固定につきましては、下の柱は地面を掘りこんで立ち上げた掘立柱工法によって固定し、上の柱は、柱のホゾと床のホゾ穴によって固定するということになります。
下の柱と上の柱が直接つながっているということはありません。
2006.2.12.回答者:本館学芸員(小林)
新発田氏と上杉氏の攻防戦では、船に井桁を組んで櫓を組み上げた軍船(せいろう船)に鉄砲で応戦するという話が残っていますが、これは大砲ではなく、たくさんの鉄砲で射掛けたものと考えています。
ちなみに、日本の戦国時代では、大砲は製造にも資金と技術を要しますし、実際に戦法として採用された例は少ないのが現状です。
戦国時代の大砲に関する確かな記録としては、
などがありますが、その後の秀吉・家康の時代では、朝鮮半島に出陣した文禄・慶長の役や、大阪夏の陣に使われた程度です。
特に大阪夏の陣で打ち込まれた大砲の威力で、大阪城に篭城していた淀君がすっかり弱気になった話は有名ですが、一般的に用いられたものとはいえないようです。
一方、鉄砲は日本刀を作り上げた刀鍛冶の持つ鍛鋼の技術を鉄砲製造に転用できたので、戦国時代には飛躍的に生産量が伸び、これをつかった戦法が発達していました。
2006.2.12.回答者:本館学芸員(長谷川)
永禄7(1564)年です。越後の戦国大名上杉謙信が活躍した時代です。
この前年から東国を巡行していた京都醍醐寺の僧侶が、旅行中の諸経費を記した帳簿の中に、「ニイカタ」とか「新方」という表記で登場してきます。
これは「新しいところ」という説もあり、この頃には人々が集まる町ができていたのでしょう。
なお、現在の「新潟」という漢字表記は、永禄11(1569)年が初見です。これは、村上の本庄氏が起こした反乱を鎮圧するために、上杉謙信が越後国内の武将は「新潟」に集結するように命じたことからわかります。
「新潟」が登場する以前から、大河信濃川・阿賀野川の河口付近には湊がありました。
信濃川の河口に位置した蒲原津は、延長5(927)年に完成した『延喜式』という法令集の中ですでに、京都へ船で税となる貢納物を輸送する際に、越後の国の湊として定められています。蒲原津は日本海交易路の要として、越後平野で最も栄えた湊でした。
一方、阿賀野川の河口付近には沼垂湊があり、建武2(1335)年の越後の武士たちが足利尊氏方(北朝)と新田義貞方(南朝)に分かれて戦った戦乱時に登場するのが文献上の初見です。しかし、沼垂という地名は、大化3(647)年に設けられた「渟足柵」にさかのぼることが出来るので、平安・鎌倉時代は、新発田市付近にあった荘園の湊として役割を果たしたと考えられます。
戦国時代には、発達した新砂丘V上に「新潟津」という湊が登場します。「新潟津」はそれまで大きな町のなかった信濃川の左岸側に立地しているという特徴があります。
新潟津の登場によって、越後平野を流れる信濃川と阿賀野川の河口には、3つの大きな湊町が存在することになりました。
上杉謙信はこの三つの湊(三ヶ津)に代官を置き、流通・軍事拠点としてこの地を掌握しました。このことからも、新潟・蒲原・沼垂の地が如何に重要な場所であったかがわかると思います。
2005.4.9.回答者:本館学芸員(長谷川)
郵便番号:951-8013 新潟県新潟市中央区柳島町2-10
EMAIL: hatena@nchm.jp
電話025−225−6111 FAX 025−225−6130
質問が集まってきたら順次公開します。
今でも夏になると葛塚(北区)の定期市で売られています。
2007.2.10
ヒルは農薬に弱いそうで、以前に比べると減っています。それでも田んぼの脇のU字溝などで見かけることがあります。
2007.2.10
本物です。柏崎の神社で奉納物として保存されていたものです。
2006.12.3
地面のしたにあるプレートのきしみなどの原因でおこるそうです。
2006.8.27
帆です。風を受けて船を動かします。現在でもヨットやウィンドサーフィンなどは帆がついていますね。
2006.8.10
大きな船だと木綿の布でできていました。小さな船だと筵なども使われていたようです。
2006.8.10
当時生活していた縄文人が、食べ物を貯蔵したり、煮炊きをするのに使いました。
2006.8.10
新潟の低湿地では低いところから高いところに水を汲み上げるのに使いました。
2006.8.10
湊の機能を巡る訴訟で、幕府が新潟側に有利な判決を言い渡したことが先例となったためだと考えられます。
2006.8.6
昭和10年代の亀田郷の農村を想定しています。
2006.8.6
江戸時代に幕府やそれぞれの領主が、新田開発を奨励し、大きな潟などの干拓によって、新しい村と田んぼが開かれたためです。
2006.8.6
種月寺(西蒲区)と諏訪神社(南区)ではないかと思います。
2006.7.26
1886(明治19)年に完成しました。いまから120年前になります。
2006.1.15
上流に大河津分水ができるまで、信濃川の川幅がいまより広かったためです。
2006.1.8
1818年(文政)元年頃のものです。
2006.1.8
多くの場合、土器は割れて出土します。それを復元して器の形にしているためヒビが入っています。
2005.5.4