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■ 下駄とは? ■

 下駄は、その目的から大きく二つのタイプに分けることができます。
 一つ目はくらしのはきものとして使う下駄です。ふだんばきやよそ行き、天気や季節などの目的に応じ、多様な種類の下駄が作られました。
 二つ目は仕事の道具として使う下駄です。田仕事に使うカンジキをはじめ、仕事の必要に応じて工夫され、さまざまな形や機能を持つ下駄が使われました。

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■ 下駄の歴史 ■

 下駄の歴史は古く、既に古墳時代にはあったとされています。古代・中世を通じて、各地の遺跡で下駄資料が出土しています。
 近世に入ると、江戸などの大都市部で下駄の種類・数が一気に増加しました。江戸の風俗を描いた浮世絵や書物には、様々な形・呼び名の下駄が登場します。背景には、購買力の向上や商品流通の発展に加え、ノコギリをはじめとする工具の発達がありました。
 近代に入ると、広く一般の人々の間に普及しましたが、洋装化とクツの普及により、姿を消していきました。

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■ 下駄の普及 ■

 江戸などの大都市を除くと、下駄が広く日常生活に普及したのは明治半ば以降とされます。1852年「あまのてぶり 盆踊りの画」から、新潟町では幕末には、多くの人々が祭りのために下駄をはいていたことがわかります。
 1901年「連合共進会会場之図」から、明治半ばには下駄が日常のはきものとして広く普及していたことがわかります。

あまのてぶり 盆踊りの画(部分)
あまのてぶり 盆踊りの画(部分)
1852(嘉永5)年

あまのてぶりは新潟奉行川村修就が作らせた絵巻物で、江戸時代末の新潟の風俗を描いた六景の画と修就自身の詞書からなる。この画は、その熱狂ぶりで有名だった新潟の盆踊りの様子を描いたもの。踊る人々の全てが下駄を履いている姿で描かれている。

新潟県主催一府十一県連合共進会
々場之図
新潟県主催一府十一県連合共進会々場之図

1901(明治34)年に開催された連合共進会の様子を伝える錦絵。背景の建物は会場となった物産陳列所で、現在の新潟市役所本庁舎の位置にあたる。よそゆきに身を凝らして会場に向かう人々が描かれており、当時の衣風俗を知ることができる。多くの人は和服に下駄履きで、当時の新潟で下駄が一般化していたことがわかる。なお、子守の少女はゾウリを、旅人はワラジをはいている。

新堀四ツ橋の盆踊り
銅谷白洋画  新堀四ツ橋の盆踊り
銅谷白洋画
1965(昭和40)年

新潟の盆踊りの様子を描いたもの。明治初め、楠本正隆県令により禁止されていた盆踊りが1898(明治31)年勝間田稔県知事により再び許された。本作品は白洋が当時をイメージして描いたもので、画面には新堀と東堀にかかる四つの橋と、その上で踊る人々を描いている。

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■ 下駄の種類 ■

 下駄にはさまざまな種類があります。歯下駄の構造からみた種類として、歯と台を一つの木から作る「連歯(れんし)下駄」、台に別の木から作った歯を差し込む「差し歯下駄」があります。
 また、機能や形状が異なるさまざまな名前の下駄があります。

日常の下駄
ふだんばきの下駄
ゲタ(手前)、ツマカワ付きのコアシダ(中)、タカアシダ(奥)

ゲタは、広く日常的に使われた下駄で、歯と台が一体化した連歯(れんし)下駄。
コアシダは雨の日に使うほか、日常のはきものとしても使用した。ツマカワは着脱可能。 タカアシダは歯が高く厚い下駄。いずれも歯が別材の差し歯下駄である。

よそいきの下駄
よそいきの下駄
塗り下駄、ポックリ、ゴザ付下駄など

行事の日には、晴れ着に合わせてゴザ付下駄やポックリなどよそ行きの下駄をはいた。嫁入り道中にはいたり、嫁入り道具として持参する下駄は、漆塗りでゴザ表の付いた豪華なものだった。

こどものよそいきの下駄
子どものよそいき下駄
子ども用の下駄、下駄に貼る絵(手前)

戦後にクツが普及する以前は、子どもは盆になると新しいポンポンゲタ(ポックリ)を買ってもらった。店で、好きな鼻緒を選んで付けてもらうのが楽しかったという。

ユキゲタ
ユキゲタ

積雪時にはく下駄。歯の裏に滑り止めの金具を付けてある。歯の間を台形にして、雪がはさまって重くならないように工夫されている

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■ ワラのはきもの ■

 米の産地新潟では、ワラは最も豊富に存在する生活の資源でした。新潟の人々は、ワラを材料として多種多様な生活や生産のための道具を作りました。燃料や肥料にも使い、ワラを余すところなく活用しました。

ワラのはきもの
ワラのはきもの
ワラジ(手前)、ワラグツ(奥右)、ワラゾウリ(奥中)、フカグツ(奥左)

 ワラのはきものは生活の必需品で、近くへの外出に使うふだんばきのワラゾウリ、仕事や遠くへ行く時にはくワラジ、寒い時にはくフカグツなど、さまざまな種類があった。

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■ 仕事に使うはきもの ■

 くらしのはきものではなく、仕事に使う下駄にも多くの種類があります。中でも田下駄は歴史が古く、紀元前3世紀の出土例があり、弥生時代には既に田下駄が使われていたことがわかります。田下駄は近代まで各地で使われており、弥生時代のものとほぼ同じ形をしているのが特徴です。
 ほかにも、杜氏が醸造の仕事に用いたコシキ下駄や漁師が砂浜ではいたハマ下駄など、木板の性質を活かしたさまざまな下駄が仕事の場で考案され、使われていました。

カンジキほか
カンジキ
カンジキ(手前右と左・奥左)

田下駄の一種で、蒲原一帯ではカンジキとよぶ。田で仕事をする時に、泥に沈まないようにするための道具。低湿な蒲原の平野では欠かせない道具で、主に稲刈りの時に使用。

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■ 新潟の下駄作り ■

 江戸時代から昭和初めにかけて、新潟では下駄作りが盛んでした。江戸時代末の文書には、下駄類の生産量が110万足との記録があります。産出した下駄は近在のほか、東北や北海道、江戸などへ売り出していました。なお、下駄を作る職人は180人と記載されています。
 近代から戦前にかけては、1913(大正2)年の290万足をピークに、生産量は100万〜200万足の間を推移していました。戦後は、日常のはきものが下駄からクツへと変化するのにともない、下駄の需要は激減しました。

新潟下駄足駄塗物職人家別人数并商高凡書上
新潟下駄足駄塗物職人家別人数并商高凡書上
川村修就文書
1852(嘉永5)年

本資料は、嘉永5年7月、役所の命によって町役人(年寄・検断)が報告したもの。下駄・足駄類110足余、塗下駄・足駄類23万足余を生産、売り出していることが記されている。

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■ 新潟の下駄屋 ■

 江戸時代より、新潟には多くの下駄屋がありました。新潟の下駄屋は株仲間を組み、営業者数を規制していましたが、その数は1864(元治元)年時点で82軒にのぼりました。
 明治に入ると下駄屋の数は一時期衰退しますが、下駄の需要の高まりの応じて、明治半ばから大正にかけて60〜70軒にまで増えました。下駄屋の営業形態には、製造及び卸を行なう卸商と小売がありました。

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■ 下駄職人の道具 ■

 展示資料の下駄職人の道具は、市内中央区稲荷町の下駄職人廣川廣次さんが使っていたものです。廣川さんは1904(明治37)年に生まれ、昭和末まで下駄を作っていました。下駄作りは親の元で修業し、子どものころから下駄職人一筋で生きた職人だったそうです。

労働日記帳
下駄職人関係資料:労働日記帳ほか
廣川廣次氏寄贈
「労働日記帳」(手前)、他の下駄職人との通信(中)、目立て道具(奥)

廣川家資料の「労働日記帳」から、複数の下駄作り工場で下駄作りを請け負うという当時の下駄職人の仕事の在り方がわかる。
また、毎日の支出を記した資料から、廣川さんが下駄職人として木挽きから仕上げまで、さまざまな仕事に対応できるように、大工道具を買い揃えていたことがわかる。毎月何枚もやすりを購入し、熱心に道具を手入れしていた様子がうかがわれる。

ノコギリの目立て道具
ノコギリの目立て道具
廣川廣次氏寄贈
目立てハサミ(手前右)・アサリゲンノウ(手前中)・目立てヤスリ(手前左)・ノコギリ(奥)

 ノコギリを手入れするための道具一式。  縦挽きのノコギリ、目立て作業中ノコギリを固定するための目立てハサミ、歯を研ぐ目立てヤスリ、歯にアサリを出すためのアサリゲンノウ。

下駄職人の道具
下駄職人の道具
廣川廣次氏寄贈

主に原木から、下駄材を木取りするための道具。手前は木取りした下駄材。

下駄職人の道具
下駄職人の道具
廣川廣次氏寄贈

主に、下駄を仕上げるための道具。手前は下駄の半製品

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◇ 目次 ◇

 

下駄とは?

説明

下駄の歴史

説明

下駄の普及

説明
あまのてぶり
共進会々場之図
新堀四ツ橋の盆踊り

下駄の種類

説明
ふだんばきの下駄
よそいきの下駄
子どもの下駄
ユキゲタ

ワラのはきもの

説明
ワラのはきもの

仕事に使うはきもの

説明
カンジキ

新潟の下駄作り

説明
文書資料

新潟の下駄屋

説明

新潟の下駄職人の道具

説明
関係文書資料
目立て道具
木取りの道具
仕上げの道具